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ピックアップアーティスト Vol.43 中島郁子の今

Interview | インタビュー

取材・文 = 高坂はる香

 イタリア・オペラの舞台で活躍するほか、近年は交響曲や宗教作品などでもその高い実力が評価されている、メゾ・ソプラノの中島郁子さん。東京藝術大学大学院修了後、10年間じっくりと研鑽を積み、2012年、ヴェルディ『ナブッコ』のフェネーナ役で二期会オペラデビュー。以来、揺るぎない土台をもってさまざまな作品を歌い、活躍の場を広げている。
 中島さんの音楽を培ったもの、歌手として大切にしていることについて、お話を伺った。

NISSAY OPERA 2016『セビリアの理髪師』ロジーナ役
(写真提供:日生劇場/撮影:三枝近志)

東京二期会 プッチーニ〈三部作〉『ジャンニ・スキッキ』ツィータ役
2018年9月 新国立劇場(撮影:三枝近志)

―声楽家を志したのは、いつのことですか?

 実は私、小学校6年生頃の卒業文集に、オペラ歌手になりたいと書いているんです。
 家族に音楽家はいませんが、両親が音楽好きだったので、家ではいつもFMラジオからクラシック音楽が流れていました。休日に祖母が遊びに来ると、一緒にピアノを弾きながら童謡や唱歌を歌っていましたね。
 私の全ての性格は、小学校の頃に決まったといえるほどです。通っていた豊島区立日出小学校は、今は統廃合でなくなってしまいましたが、あの頃は各学年1クラスと人数が少なく、先生方が子供達にきめ細かく目を配ってくれていました。音楽の先生も熱心で、授業では一人ずつみんなの前で歌う時間があり、おかげで私にとって人前で独唱するということがごく自然となりました。さらに、親に連れられて声楽のコンサートを聴く機会があり、自分は将来歌手になろうと思ったようです。
 当時、図工の授業で「箱の中に自分の好きな世界を作る」という時間があり、私は「私の夢」をテーマに、ピアニストと歌手がいる声楽リサイタルの舞台を作りました。
 完成した作品は、普通、みんな自宅に持ち帰るのですが、なぜか図工の担当の先生が私に「これ、もらっていいかしら?」とおっしゃったのです。大好きな先生だったので、もちろん差し上げました。先生とはその後も年賀状などで連絡を取り合っていました。
 そして、今から10年くらい前のこと、私がイタリア留学を終え、日本に帰ってきた頃、先生が「返したいものがある」と。なんと、あの図工の作品を返してくださったのです。異動先でも大切に保管してくれていたようで、ずっと応援してくださっていたのだと思うと、嬉しくなりました。
 小学校の先生方は、今も私が出演するオペラやコンサートを聴きにきてくださいます。舞台などで歌う姿を見ると、「あの、飼育小屋でうさぎを追いかけていた郁ちゃんが…」と思うらしいですが(笑)、私も先生たちと会うと、小学生の頃の気持ちに戻ります。
 ちなみに、昨年東京フィルハーモニー交響楽団とのマーラー「千人の交響曲」でソリストを務めたときは、なんと音楽の先生が合唱団に参加していらっしゃいました!
 あたたかい先生方にのびのびと育てていただき、あの頃感じた、音楽が好きという気持ちをそのまま抱いて、今に至っています。

中島郁子作 図工作品

―そうして音楽の道を志し、東京藝術大学に入られたのですね。

 大学で師事した先生のもとでは、徹底してイタリア声楽曲の基礎を身につけました。大学院の論文のテーマは「カッチーニからロッシーニに至るイタリアのベルカント」です。
 当時は、オペラの華やかなアリアを歌うのではなく、パノフカやボルドーニなどの教則本の練習を徹底的に繰り返し、モンテヴェルディのレチタール・カンタンドから、イタリア・オペラの歴史を追うように勉強しました。昔のイタリアのベルカントの歌手がしていたのと同じ訓練を、じっくりと続けていたのです。先生からは、将来、プロの声楽家になるのであれば、今こうした基礎を固めることが大切だということを教えていただきました。
 修士課程2年の時、藝大定期演奏会で、ヴェルディ「レクイエム」のソリストを務めることになりました。このリハーサルを、当時びわ湖ホールの芸術監督だった若杉弘先生が聴いていらして、ヴェルディ没後100年公演で、レクイエムのソリストに呼んでくださいました。ベテランのみなさんに混ぜていただく形でしたから、今思えば、よく声をかけてくださったなと思います。
 そんな機会をいただきながらも、実は私はその後10年ほど、表舞台での仕事を一切せずに過ごしています。これは、将来のために今はまだ勉強を続けるべきだという、師匠の強い勧めがあってのことでした。先生は、何かの真似事でなく、本質を見据え、自分自身をきちんと育てることを大切にしなさいとおっしゃる方でした。
 20代のうちに活動を始めた同級生たちからは、何をしているの?と思われたかもしれません。でも私自身は焦ることなく、地道な練習を続けました。もともと、コツコツと積み重ねることが好きなのです。そして、時々イタリアのコンクールを受ければ入賞という結果が出ていたので、このやり方で間違っていないのだろうという実感もありました。

―その後、イタリアに留学されたのですね。

 30代前半だった当時の私は、ロッシーニに熱心に取り組んでいました。しかしイタリアで師事した先生は「あなたは必ずヴェルディを歌えるようになる」といって、『イル・トロヴァトーレ』のアズチェーナや『アイーダ』のアムネリスを勉強するよう勧めてくれました。先生が一緒に歌ってくれることで、イタリアらしい人間の感情の幅の大きさ、そして、言葉と感情が一つになる感覚を掴むことができたように思います。
 留学を終える34歳の頃、先生から「今すぐにあなたが歌えるヴェルディの役柄は『ナブッコ』のフェネーナよ。歌いなさい」と言われました。そう言われても、日本で「ナブッコ」が上演されることなんてあるかしら……と、その時は思いました。
 そして帰国後、日本に帰ったら入ろうと思っていた二期会のオーディションの要項を見たら、なんと演目が『ナブッコ』だったのです!

―なんと運命的な!

 はい、驚きました(笑)。そしてオーディションを受け、フェネーナを歌わせていただけたのです。
 実は、当時先生がおっしゃっていたことがもう一つあります。「40歳になったら『イル・トロヴァトーレ』のアズチェーナを歌いなさい。今も歌えるだろうけれど、まだ早い。40歳になるまで待ちなさい」と。
 するとそれから数年後、40歳になる1年前、二期会の『イル・トロヴァトーレ』オーディションの案内が目に飛び込んできたのです。これは挑戦するしかないとオーディションに参加し、歌わせていただけることになりました。公演の数週間前が誕生日で、ちょうど40歳になり、本番を迎えたんですよ。二期会は、本当に幸運なタイミングで私にチャンスを与えてくれています。
 実際、この時にアズチェーナに取り組んでみると、30代前半の頃よりも力が抜けて、言葉と感情を一緒にし、精神的にも体力的にもストレスなく歌うことができました。マエストロ・バッティストーニの、イタリアらしいリズム感や熱量から刺激を受けたことも助けになったと思います。歌うことにより、声も良くなっていく感覚がありました。若い頃なら大変な役だと思っていたかもしれませんが、本当にいい時期に歌うことができたと思います。
 こうして振り返ると、大学院を出てから二期会に入るまでの10年間は、私にとってとても重要でした。あの期間があったからこそ、テクニック的にも精神的にもぶれることなく、今もこうして歌っていられるのだと思います。

東京二期会 ヴェルディ『ナブッコ』フェネーナ役
2012年2月 東京文化会館(撮影:三枝近志)

東京二期会 ヴェルディ『イル・トロヴァトーレ』アズチェーナ役
2016年2月 東京文化会館(撮影:三枝近志)