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Interview | インタビュー

イタリアの太陽を思わせるプリモ・ウォーモ 樋口達哉の軌跡

これまで数々の国際コンクール受賞に輝き、1998年ハンガリー国立歌劇場『ラ・ボエーム』ロドルフォでヨーロッパ・デビュー。以後、ドニゼッティ歌劇場(ベルガモ)やミラノ・スカラ座に出演するなど、イタリアを拠点とした数年に亘る武者修行時代を経て、2006年4月に二期会会員となった樋口達哉さん。2007年大島早紀子演出『ダフネ』のロイキッポス、粟國淳演出『仮面舞踏会』リッカルド、2008年P.コンヴィチュニー演出『エフゲニー・オネーギン』レンスキー、2009年宮本亜門演出『ラ・トラヴィアータ(椿姫)』アルフレードと印象に残る主役を次々と演じ、ファンを魅了している。
イタリア仕込みの輝かしい美声とヒロイックな容姿のスター性を持ったプリモ・ウォーモ登場は、ドイツオペラ路線のイメージがあった二期会に新しい風を吹き込んだ感がある。並行して新国立劇場や日生劇場のオペラやコンサートにも次々と出演するなど引く手あまたの活躍で注目を浴び、2009年10月には、東京二期会で、大好きな役『蝶々夫人』のピンカートンを演じる。その魅力に迫った。

物静かで音楽好きだった少年時代
▲Photo Shinya Nishizaki ―――自然豊な福島で公務員の長男として生まれた樋口達哉さん。幼少の頃からエレクトーンを弾きこなし、‘すごい才能’とご近所でも評判だったそうですね。
「恥ずかしがり屋で大人しい子どもでしたが音楽と歌は大好きでした。最初の受賞ですか?小学生の頃、地域の子どもや両親たちと林間学校で旅行に行った際〈のど自慢大会〉で童謡を歌って受賞したのがはじめでしょうか(笑)」
ビートルズの‘レット・イット・ビー’などリズム感のある曲を弾くのが好きで、 小学生になると学芸会のクラスとクラスの劇の幕間にも指名され曲をBGMで弾いていた。
「僕にとっての音楽は何かコミュニケーション手段のひとつだったのかもしれません。」
バスケットボールにも打ち込んで
―――それなのに中学校ではバスケットボール部に入部されたそうですね。
「思春期を迎えて、音楽だけで軟弱だと思われたくない。何か、自分に新しい負荷を課したいという気持ちだったのでしょうか。バスケットボール部に入って毎日12キロのランニングをし、激しい練習の中でドロップアウトする人も多かったけれど、頑張りましたね(笑)。」
最近ではオペラ歌手もトップアスリート同様、フィジカルな俊敏さが要求される時代だが、その基礎がこの時代に形成されたに違いない。そして常に人の輪を大切にするだけでなく、決めたからには何事にも真摯に打ち込む樋口さんは、3年目にはキャプテンも務めている。
「過酷なスポーツを通じて、チームでプレーすることの大切さ、演技の際の瞬発力などが知らずに養われたというメリットもあったかもしれません。」
1980年代、巷は空前のアイドルブーム。松田聖子やジャニーズのたのきんトリオなどが人気を博していた。
楽譜を買ってきては弾くのが楽しみで、自分でも振りをつけて歌ってみたり、 スポーツの傍らエレクトーンに熱中する日々が中学3年まで続いていた。
ミュージカルとの出会い
そんな中でひとつの転機となったのが、地元で観た劇団四季のミュージカル『アンデルセン』だった。室内楽的な美しい音楽と本格的なバレエシーン。そして主演は看板役者として大人気だった市村正親さん。心の葛藤や逆境をも作品へと昇華させるアンデルセン役をドラマティックに演じる姿は樋口少年の心を強く揺さぶり、「わぁ〜。スゴイなぁ。あんな風になりたいなぁ」と心から思ったという。
それからの樋口少年は足繁く芝居にも通うようになり、益々舞台への関心を深め、東京での進学を目指すようになる。
「その頃はまだ何になりたいかは、漠然としていました。けれども音楽が大好きだったので、エレクトーンとピアノの鍵盤のタッチの違いに当初は戸惑いながらも高校からピアノをはじめ、ブラスバンド部にも入らないかと強引に誘われて、クラリネットも演奏していました。
高校の文化祭で当時からアイドル!
その時代にオーケストレーションや楽器というもの全般について自然に学ぶことができたのはよかったですね。そして高校2年の終わりには本格的に声楽を習いはじめるようになったのです。 両親には自由に何でも好きにやらせてもらい本当に感謝しています。でも僕が東京で音大に入りたい、それも[歌]でと言った時、当時の先生が‘歌っていうのは30代も半ばを越えないと何者になるかわからない。それでもやる気なのか?’とおっしゃって、そのときはその意味をあまり深くは理解していなかったのですが、今振りかえって思えば、声という楽器を創りあげてゆく過程というのは本当に長い道のりです。様々な経験を積んで最近になってやっと自分の声を本当の意味でコントロールできるようになってきたし、精神的にも少し余裕が生まれてきたように思います。」

―――ご自身の身体が楽器なわけですから、それをいかに創り上げてゆくかは一朝一夕には出来ないことですよね。樋口さんも最初はテノールではなく、バリトンでいらしたそうですね。
「作品の中の人間ドラマに興味があったこともあり、大学入学当時は深々としたバスの低い音色がすごく好きで、『ドン・カルロ』のフィリッポ2世のアリア‘ひとり寂しく眠ろう’や『リゴレット』や『椿姫』のジェルモンなど性格的な役柄に強く惹かれていました。」
生のイタリアオペラの初体験は『蝶々夫人』でした

「大学一年の秋に観た『蝶々夫人』。それがはじめて生で観たオペラでした。その時師事していた先生がボンゾで出演していたのです。
最初は、僕もバリトンとして勉強を続けていましたが、だんだんに声が変わっていって、『愛の妙薬』の〈人知れぬ涙〉の課題を出された時に、‘これが歌えたならおまえはテノールだ’と言われ、3年の途中からテノールに変わったのです。
テノールやバリトンって、音の高低だけではなく、声の質を指すと思うのですが、僕自身、来日公演でドミンゴが歌った『仮面舞踏会』の総督リッカルドや、何と言ってもマリオ・デル・モナコの演奏を知って、真の花形スターとはこういうものかと感銘を受けました。
一番影響を受けたのは、何と言ってもデル・モナコの『パリアッチ(道化師)』です。 旅芝居一座の座長カニオが、嫉妬に狂い妻とその愛人を殺害するに到る、息を呑むようなドラマに「ああ!テノールってすごいなぁ」とまるで雷に打たれたような衝撃を覚えたのです。まずその声に「何だこれは!」とインパクトを受けたと同時にお芝居の面でもすごく心を打たれたんですね。時を越えてこちらに迫ってくる壮絶な〈衣裳をつけろ〉の迫力、声だけではない〈ドラマ〉が胸に迫る感動に、この仕事を天職にしたいと心に決めた瞬間がそこにありました。」
イタリアオペラ三昧だった学生時代。そして乾いた砂地が水を吸い込むように年間何十本というコンサートに足を運び、国内外問わず、もっともっと知りたい!と、各声種のリサイタルにも通う日々が続いた。
「もっと勉強を続けたくて、大学院に進学し、そして大学院を出る頃にはイタリアオペラの本場を知りたくて、留学しようと思ったのです。」

ミラノ留学

「輸入楽譜の専門店、工事現場の旗振り、オペラの合唱やママさんコーラスの指導など、様々なアルバイトをし、留学資金を貯めました。」
そしていよいよ念願のミラノへ。着いた次の日からレッスンを開始し、師事したのはテノールのアルド・ボッティオン。ヴェネチアのフェニーチェ劇場でデビュー以来、イタリアを中心に活躍し、ローマでロッシーニ『オテロ』のタイトル・ロールや、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮・演出『オテロ』のカッシオなどでも知られている。
「奥様がソプラノ歌手のジャンナ・ガッリさんで、彼女が音楽事務所をやっている関係で、僕もそこでいろいろなチャンスに恵まれました。イタリアの滞在は当初2年間のつもりでしたが、ここまででよいというものではなく思いのほか長くなりました。」

イタリアでの日々
「僕は文化庁派遣などの国費で留学した訳ではありませんでしたから、渡欧することで何か将来が約束されていたわけでもないし、全くゼロからの出発で、イタリアに来たからには、何か確かなものを掴むまで帰れない、というような気持ちもありました。
イタリア人の友人に‘何で東洋人のお前がイタリアまで来たんだ?’と聞かれ、‘自分を信じて夢を実現させる為に来たんだ’と答えたものの、いずれ滞在資金も心もとなくなり、旅行者を早朝や深夜に送迎するトランスファーの仕事で生活費を捻出していた時期もありました。早朝4時や深夜の1時に空港へ送迎に向かいクタクタになりながら、ある日ハタ!と思い当たったのは、「こうして働いて働いて、毎日この国で何とか生活は出来ているけれど、いったい自分は何をやってるんだ。これじゃあ、ダメだ。当初の志はどこへ行った!?」という自問自答でした。
そんな98年のある日、スカラ座からコーラスメンバーのオーディションの誘いがありました。「そうだ。自分の道をみつけなければ。もう仕事はクビになっても構わない。」と翌日の仕事を断わって、オーディションに臨み見事合格、それからスカラ座の舞台に2シーズン立ちました。スカラ座では素晴らしい一流の指揮者の下、沢山の舞台を経験し、時には抜擢されソロのパートを歌う機会にも恵まれました。こうして音楽の仕事でしかも憧れのスカラ座の舞台に立ちながら暮らしてゆけるのだから、‘それで充分だろう’と言う人も多かった。けれど、それでも自分の中では、「僕はテノール歌手としてドラマを創りあげる主旋律を歌いたい。その為に学んできた・・・」という想いが拭い去れませんでした。
ラヴォーチェ  
04年『ルチア』レナート・ブルゾンと樋口達哉 そこでカルーソー国際声楽コンクール最高位などの受賞の後、さらなるチャンスを得る為、一旦日本に帰り、ブダペスト国際コンクールオペラコンクールアジア予選に合格、本選にも勝ち残り、98年ハンガリー国立歌劇場に於いて『ラ・ボエーム』のロドルフォ役でヨーロッパでデビューすることになったのです。以後、ロヴェレート市立歌劇場(イタリア)でもロドルフォを歌い、ドニゼッティ歌劇場(イタリア・ベルガモ)オーディションにも合格という快挙を遂げます。受賞のお蔭で‘ハンガリーにソリストとして来ないか’というお話もありました。けれど暫くブダペストに滞在してみて、やはりイタリアが僕の第二の故郷だという気持ちがあり、今度は自分の演奏に集中する為にリクルートの奨学金に応募したのです。 アンサンブルの仕事で劇場に拘束されているとオーディションを受けることもままなりませんし、江副育英会の助成は有難かったですね。そのご縁でラヴォーチェのオペラや新国立劇場出演への道も自ずと拓けてゆきました。」
さらに99年ミラノ・スカラ座に於いてR・ムーティ指揮『運命の力』にソリストとして出演。メトロポリタン歌劇場管弦楽団との共演やオマーン王立管弦楽団、国立キューバ・フィルハーモニーオーケストラ、国立ヴェルディ音楽院、ロンバルディア音楽フェスティヴァル等イタリアを中心に各地でコンサートやオペラに出演を重ねていった。
「今の僕があるのはその時の苦労と蓄積があるからだと思っています。」
ピンカートンは特に思い出深い役なんです
「ミラノに留学した当初は、志を同じくする友達と一緒にスカラ座の安いチケットを手に入れるため、冬の寒い時にも歩いて、歩いて早朝に劇場につき、点呼がある時間まで待っていたのものです。苦労して並んで、連日のようにオペラを観ていました。
そういえば、ミラノではじめて観たオペラもスカラ座での『蝶々夫人』だったんですよ。
だからやはり印象が強いし、いつか自分も大舞台でピンカートンを歌う歌手になりたいと思っていました。
そして、イタリアで一番最初に出演したオペラも『蝶々夫人』のピンカートンでした。1997年 ミラノとミラノ近郊で、国籍混合で上演しました。」



http://www.nikikai.net/lineup/butterfly2009/index.html  東京二期会
http://www.nntt.jac.go.jp/frecord/updata/20000020.html 新国立劇場2007年公演記録

「ピンカートンは僕にとって、そんなこともあって、切っても切れない役ですし、思い出や思い入れがたくさんある役のひとつなんです。
イタリアは僕にとって第二の故郷になりました。ですから『仮面舞踏会』のようなイタリア語の作品はコトバの上では一番身近ではありますが、フランスオペラも好きだし、二期会デビューとなった『ダフネ』や、コンヴィチュニー演出も話題になったロシア語の『エフゲニー・オネーギン』など、登場人物のドラマを活き活きと具現化するプロダクションに出会えたことは素晴らしい経験でした。才能溢れる個性豊かな演出家や指揮者たちと出会い経験を積むことで、声と演技のバランスを知らず知らずに自由にコントロールすることがやっと容易になってきたような気がします。」
The JADE
▲Photo Shinya Nishizaki ―――高野二郎さん、成田博之さん、黒田博さんと日本オペラ界で人気の四天王がユニットを組んで「ザ・ジェイド」が結成され、J-POPを華麗に歌い、EMIから『手紙』もリリースされて、ジャンルを超えた活躍も巷で話題になっています。
東洋を代表する神秘な宝石“翡翠”の意味で、日本の歌謡曲のジャンルにも新風を送り込み大人気のようですね。
「マイクを使うことやポップスを歌うことなど、僕にとっては慣れないことばかりですが、〈歌〉を通じてメッセージを伝える意味では自分の中でどんな曲にもボーダーはないと思っています。特にオリジナル曲の「手紙」や「みんなのものだよ」には、忙しい日常の中に置き忘れてしまいがちなさりげない優しさや人を大切に想う気持ちが込められているので、日本語で歌うことでダイレクトに伝わってくれればいいなと思っています。」

http://thejade.jp/index.html
The JADE ザ・ジェイド二期会オペラ歌手ユニット
「これまで自分の目指す道を信じてどんな時もあきらめずに進んできました。これからも過去の自分を懐かしむことはあっても、後を振り向きたくはない。僕は本当に運がいいと思うし、廻りの人たちに支えられて何とかここまで来ることが出来ました。僕の演奏を聴いて、元気づけられたというようなメッセージを頂くと、本当に歌手冥利に尽きるし、一度きりの人生、力を尽くし、悔いなく前進してゆきたいと思っています。」
と、力強く語る樋口達哉さん。そのさらなる躍進はまだまだ続くに違いない。
2008年京王オペレッタフェスタ『チャルダーシュの女王』より

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