コンヴィチュニーの演出では、すべてのことが音楽から生まれるのです
~ヨハネス・ライアカー(《サロメ》舞台美術)インタビュー

   聞き手:森岡実穂、山崎太郎  
   ドイツ語通訳:蔵原順子

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『サロメ』舞台美術
ヨハネス・ライアカー
――ライアカーさんは、ペーター・コンヴィチュニー(ウィーン《ドン・カルロス》、ミュンヘン《トリスタンとイゾルデ》)、ガイ・ヨーステン(アントワープ《スペードの女王》、ライプツィヒ《トロイアの人々》)、クリストフ・ロイ(ロンドン《トリスタンとイゾルデ》)フィリップ・ヒンメルマン(ブレゲンツ《トスカ》)など、たくさんの第一線の演出家の方々と、それぞれに非常に強烈な世界観をもった、オリジナルな舞台をつくっていらっしゃいますね。

ライアカー 私は常に、それぞれの演出家、チーム全員といっしょに、それぞれの作品にとって大切なことを舞台であらわそうとしています。ご覧いただいておわかりだと思いますが、どの作品も違うアプローチ、違う作品になっています。どの作品にも共通する私の様式、私のスタイルというものがあるわけではありません。むしろ作品ごとにまったく違う世界になっているのは、作品が何をあらわしたいのかを重要視しているからだと思っています。
それぞれの作品の内容も違うし、劇場環境も違います。自分が知っていることをやろうというのではなく、むしろ知らないことをやろうという気持ちでそれぞれの作品に臨んでいます。それには演出家との緊密な関係が不可欠だと思っています。全く新しい目でその作品を見ようということを心がけています。

――コンヴィチュニーさんと一緒にお仕事をされていることもひとつの理由だと思うのですが、あなたは劇場全体を観客に実感として把握させるような、スケールの大きい装置を作られますね?
ライアカー とくにコンヴィチュニーさんとの作品ではそういうことが多いのですが、常にバロック以来、観客と舞台の間に暗黙のうちに存在する「第四の壁」を取り払おうということ、その壁を突き破り、聴衆に自分の存在をちゃんと意識させるというということを心がけています。最初にそれをかたちにしたのはベルトルト・ブレヒトでした。見えない壁を突き破ることによって、聴衆はあたらしい体験をすることになります。劇場というところでは、おおいに、観客との直接的なインタラクションがあってしかるべきなのです。そうやって壁を突き破ることによって、たぶん、戸惑いが生まれると思います。でも戸惑いとともに、作品を見る目もかわる。新しい視点で作品を見るようになると思っています。

――今日もまた新しい形で、ひとつ壁が破られたような舞台でしたね。
ライアカー 今回の《サロメ》という作品においてとても大切なことは、そこに登場する人物を、それぞれにあらかじめ与えられた物語から解放してあげることです。運命とはもう決まっているもので、人はそれに従わざるを得ないように見えるのですけど、そうではなくて、その運命に従わなくてもいいんだ、それぞれの人生というのは自分でつかむものであり、自分で自分を解放し、自分の主人になることができるんだ、そういう可能性を示したかったのです。
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――巨大で堅牢、そして舞台一杯につくられ外部のないシェルターの存在が、最後のカタルシスにとって非常に効果的でした。
ライアカー 完全に閉ざされた社会、まるで終末劇のように、そこから逃れるすべはない世界を描こうとしました。でも、強く望めば、自分の意思があれば、外に出る道はあるかもしれないのです。それは最終場面で現実となり、愛のほうが死よりも強いのだということがあらわされます。
ハイナー・ミュラーの作品『アルゴー船員たちのいる風景』の中に、「第三次世界大戦後のシェルター」というト書きのついたシーンがあるんですね。そういうシチュエーションをイメージして、外界はもう完全に崩壊しているけれど、そのシェルターの中で、外にあった昔の構造だけはまだ生き延びているという状況を想定しています。ちょっとベケット的な状況ですね。生き延びた最後の人間であるにもかかわらず、崩壊以前と同じように生きていてなんら変わっていない、もしかしたらもう地球最後の人かもしれないのに、やっていることは同じで、何も学んでいないということをあらわそうと思いました。
――この《サロメ》の舞台をつくるにあたり、演出家ほかのチームメンバーと舞台美術家との間ではどういう共同作業のプロセスがあったのでしょう?
ライアカー 私はいろいろな演出家と仕事をしており、その準備の仕方というのはそれぞれです。いろいろな方と仕事をすることで、新しいインスピレーションが得られます。自分自身の考えがあらたまることもあり、発想も豊かになるので、それはとてもいいことだと思っています。
とりわけコンヴィチュニーさんとの仕事というのはもう準備期間からして楽しくて、準備期間が全制作過程の中で一番楽しいと言っても過言ではありません。だいたい3、4日間、全員で一緒に音楽を聴くところからはじめて、歌詞を一緒に確認しながら、それぞれ自由に意見を述べます。本当にオープンに意見交換をして、その会話の中から徐々に「これはこういう風に舞台上で実現しよう」という方向性が固まってくる感じです。音楽や歌詞が何を言っているんだろうということを確認しながら進めて行き、そのうちその中から何かが生まれるという感じですね。
――今回、シェルターという装置は作品解釈の核となると思うのですが、それはどんな流れの中で出てきたのですか?
ライアカー この準備期間の会話の中では、皆がそれぞれ思いついたことをどんどん言ってもいいというのがすごく大事なんですね。時にはすごくばかなことも言うかもしれない、でもそこからなにかが生まれるかもしれない。どこかの時点で「なにかハイナー・ミュラーを思い出すよね」という話から始まったと思います。非常に音楽に力があるので、この音楽が醸しだす圧倒的なエネルギーを受け止められるもの、これに持ちこたえられる何かが必要だ、というところから、シェルターというアイディアが固まってきました。これほどの力を受け止めるには、ばらばらなものでは無理だと思うのです。点在している波止めブロックのようなものでは壊れてしまうでしょう。だから舞台全体を完全に覆い尽くすような形で、押し寄せてくる音楽の力にも十分持ちこたえられ、逆にそれを押し返すほどの強靭な何かが必要だ、というところから始まったと記憶しています。
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――今回の照明はマンフレッド・フォスさんですが、今回、照明が素晴らしい効果を上げているところをご紹介いただけますか?
ライアカー 特に、いま私たちがいる部屋のような現実の照明を模しているところと、非常にイマジネーションにあふれた部分の対比が一番注目してほしいところです。照明によって、突然まったく別の雰囲気が生まれます。たとえば「七つのヴェールの踊り」では、単なる通常の舞台照明だけではなく、左右から強い照明を当てることによって、ダ=ヴィンチの『最後の晩餐』を思わせる、表現主義的な影をつくっています。このアイディアは、最初から意識していたわけではないのですが、結果として、まさにイエスの「この中に私を裏切るものがいる」という言葉を聞いたときの弟子たちの驚愕が、皆の手の動きであらわされて、すごくいい絵になったと思います。
影の効果をうまく使っているところは、必ず音楽と連動しているところでもあるんですね。実は最初の案としては、明かりも徹底してずっと同じにしようかという話もあったんです。けれどそれではつまらないし、内容的にみても、音楽だってずっと同じトーンで進んでいるわけではないので、それはやはり音楽にあわせて変化をつけなければならないと思ったわけです。特に「七つのヴェールの踊り」というのは、突然それまでとまったく違う音楽になりますよね。それならやはり、視覚的にもそう見せなくてはならない。それで照明を変えようということになったわけです。
――動きにしても照明にしても、常にとても演出が音楽的です。
ライアカー まさにそれがコンヴィチュニーの強みで、彼のすごさというのは、まるで指揮者が曲を指揮するように、オペラを演出しているところだと思います。すべてが音楽から生まれているんです。

(2011年2月18日、 東京文化会館)
構成:森岡実穂
*ライアカーさんの舞台美術家としてのキャリアやお仕事内容など、このインタビューの続きを、2012年発売(予定)の「クラシックジャーナル 特集:ペーター・コンヴィチュニー(仮題)」(アルファベータ)でぜひご覧ください。
▼公演詳細はこちら。
2011年2月公演 R.シュトラウス『サロメ』 - 東京二期会オペラ劇場

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